九九式短小銃(きゅうきゅうしきたんしょうじゅう)または九九式小銃(きゅうきゅうしきしょうじゅう)は、1939年(昭和14年、皇紀2599年)に大日本帝国陸軍が採用したボルトアクション式小銃。英語圏ではArisaka 7.7mm RifleやArisaka M1939 Rifle、Type99 Rifle、M99 Rifleとも呼ばれる。
三八式歩兵銃(三八式小銃)の後継銃として採用され、部隊配備は1941年(昭和16年)から、第二次世界大戦では連合国軍との戦闘に用いられた。
- 大正8年 - 試製7.7mm小銃の研究を開始
- 大正12年 - 試作研究終了。次期小銃の基礎資料となる
- 昭和4年4月 - 試製甲号7.7mm歩兵銃審査開始
- 昭和4年6月 - 審査終了。次期小銃の基礎資料となる
- 昭和13年4月8、9日 - 7.7mm協議会開催。小銃・機関銃・実包について協議された
- 昭和13年4月 - 次期小銃の設計に着手
- 昭和13年10月 - 次期小銃1次試作完了。耐久性の改善要求が出された
- 昭和14年1月 - 2次試作完了。制退器を削除、照尺の改良、製造の簡易化がなされた
- 昭和14年5月 - 3次試作完了。実用試験に供された
- 昭和14年7月15日 - 仮制式制定上申
- 昭和14年 - 制式採用
- 昭和16年 - 生産開始
- 昭和16年4月 - 小倉陸軍造兵廠研究所で陸軍技師・水野武雄が九九式小銃を半自動化した改造ピダーセン自動小銃の製作に成功(当時の国状によりこの小銃は制式採用されなかった)
- 昭和16年12月 - 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦
- 昭和20年8月 - 太平洋戦争敗戦により生産中止
- 昭和20年 - GHQの指示により、九九式短小銃14万丁がM1ガーランドと同じ弾薬(実包)を発射できるよう改造される
- 昭和25年6月 - 朝鮮戦争勃発により韓国軍が九九式短小銃を使用
- 昭和25年8月 - 警察予備隊の発足により同隊が九九式短小銃を制式採用
- 昭和36年6月 - 保安隊を経て自衛隊が使用していた九九式短小銃は経年により不良品判定を受け射撃禁止措置とされる
- 昭和39年9月 - 豊和工業に在籍していた九九式短小銃の開発チームが64式7.62mm小銃を完成させ、自衛隊に制式採用された。
「九九式小銃」自体は大きく分けて短銃身型(九九式短小銃)と長銃身型(九九式小銃)の二種類が存在するが、一般に「九九式小銃」と言った場合は短銃身型を指す。また、長銃身型は一般に「九九式長小銃」と呼ばれるが、これは制式名称ではない(後述)。
三八式歩兵銃からの改善点は以下の通り。
- 弾薬を九九式軽機関銃と共通化(九二式重機関銃とも一方的ながら共通化)
- 威力向上のため、6.5mmから7.7mmへ口径の大型化
- 命中精度向上のため、照星・照門の改良、対空表尺の装備
- 反動増大対策(銃口安定性増大)のため、単脚(モノポッド)の装備
- 機動性向上のため、銃身の短縮、総重量の軽減
- 量産性向上のため、部品のゲージ規格化と品質管理の導入
- 歩兵部隊の近接支援火力を増大するため、小銃擲弾の装備
- 上部被筒を装備することにより、日照による温度差での銃身の屈曲を防ぐ
- フロントサイトガードを装備することによる、照星の損傷を防止する
九九式小銃を装備した部隊には、実包が共通化されていた九九式軽機関銃が分隊あたり1丁配備された。 銃剣は三八式歩兵銃に引き続いて三十年式銃剣を採用している。
最大の生産工場は名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所であり、また東京第一陸軍造兵廠・小倉陸軍造兵廠の陸軍造兵廠、広島・仁川・満州などの工廠や民間企業でも生産された。短小銃の生産数は約250万挺と言われ、日本の小銃生産史上、三八式歩兵銃に続いて第2位の生産量とされている。詳細な生産数については戦中戦後の混乱で資料が残っておらず、完全には把握されていない。
1940年代初期の緊迫した情勢と国力の限界ゆえに、三八式歩兵銃(6.5mm)から九九式小銃(7.7mm)へと全面更新することは出来なかったが、九九式小銃自体は第二次世界大戦(太平洋戦争)時の日本軍(陸海軍)主力小銃として使用された。主な配備部隊は南方戦線を中心とし、例としてアッツ島の戦いにおける第7師団、ビアク島の戦いにおける第35師団、ペリリュー島の戦いにおける第14師団、フィリピン防衛戦における第68旅団、硫黄島の戦いにおける小笠原兵団・第109師団。ほかビルマの戦い、サイパン島の戦い、沖縄の戦いなどでも使用された。
誰が釣りをした
九九式小銃はドイツ国防軍や国民革命軍のKar98k、ソ連労農赤軍のモシン・ナガン M1891/30、アメリカ軍のスプリングフィールド M1903、イギリス軍のリー・エンフィールド No.4 Mk Iなど、第二次大戦当時の列強各国軍における同世代の主力小銃と比較しても互角以上の性能と信頼性を備えていた。一方で、(長銃身と小口径弾ゆえに反動がマイルドで撃ちやすい)三八式歩兵銃に比べて(大口径化にともなって反動が強くなった)九九式小銃の命中率は低下していた。当時の一般兵士の貧弱な体格では精度の高い射撃はしばしば困難であり、この点から新型小銃は改悪と評価される場合もあった。反動の増大と命中精度の低下の対策として、他国にあまり例をみない単脚が装備されているが、これが有用であったという使用者の証言は少ない。また、大戦末期には国力の低下から小銃に限らず粗製品が生産されたため、その末期型九九式小銃に関しては本来の性能は期待できなかったという。太平洋の密林において頻発 したごく近距離での戦闘では米軍が広く配備した半自動小銃であるM1ガーランド、M1カービンに撃ち負ける場面がしばしばみられた。日本兵には鹵獲したM1カービンが人気があったという。
九九式小銃を開発した技術者は戦後、豊和工業に就職して自衛隊の64式7.62mm小銃を開発したが、こちらは冷戦期のソ連軍侵攻を意識し、待伏せ攻撃に特化した自動小銃として設計されている。
[編集] 7.7mm口径化の経緯
日露戦争終戦後(同戦争における主力小銃は三十年式歩兵銃)、日本軍では三八式歩兵銃を主力小銃として使用していた。しかし、三八式歩兵銃の6.5mm弾(三八式実包)では弾丸が小さく軽量なため敵兵に致命的な負傷を与えられず、戦列復帰が早いことが問題視された。また、敵兵だけでなく、軍馬に対する殺傷力の点でも不満があった。時代の趨勢は機関銃中心の歩兵戦術へ急速に移行しつつあり、歩兵銃弾と機関銃弾の銃弾の共通化が喫緊の研究課題であった。
このため陸軍では、日露戦争終結前後から大口径化による高威力化の必要性を感じていたとされる。当時の欧米列強国の小銃弾に準じて、口径は7mm~8mm程度が好ましいとされ、三八式歩兵銃を基にして何種類かの大口径小銃が試作された。のちに7.7mm弾(九二式実包)を使用する新型重機関銃たる九二式重機関銃が実用化されると、弾薬の補給面からこの7.7mm弾を使用できる事が要求に組み込まれた。満州事変や上海事変、日中戦争(支那事変)で対峙した中国軍や軍閥は7.92mm弾(7.92mmx57IS)を使用するマウザー(モーゼル)系の小銃で武装しており、三八式歩兵銃では撃ち負けるという第一線からの指摘も参考にされた[要出典]。(。また7.92mm弾では早くから徹甲弾が実用化されており、命中箇所によれば日本軍の装甲車や軽戦車の装甲を貫通することもあった。こうした戦訓も後押しする形で、明治・大正・昭和と研究されてきた新小銃の配備が決定された。
こうして完成・採用されたのが九九式小銃だったが、日中戦争の激化で動員がすすめられ兵士の数が急増したため三八式歩兵銃からの全面更新は不可能となった。結果として2種類の主力小銃が同時に存在したまま太平洋戦争に突入してしまった。なお、おおむね師団単位で使用銃器(口径)は固定化され、南方方面には7.7mm部隊を、既存の中国方面には6.5mm部隊をと区分けはされていたものの、日本軍全体においては弾薬補給上の混乱を招き、また大戦中後期には南方戦線の戦況悪化のため中国方面の部隊を引き抜き戦力増強としていたこともあり、日本軍の戦力を幾分かは阻害した。また、九二式実包との互換性についても計画通りには実現できなかったため、意図に反して補給上の問題はさらに煩雑となった(後述)。
[編集] 対物射撃
日本軍、特に満州に展開する関東軍にとって最大の脅威は、その機動性をもって退路および補給路を遮断する恐れのあるソ連の自動車化狙撃兵師団であった。遠距離の対人対馬射撃ではその小口径ゆえの命中率の高さから優位を確保した三八式歩兵銃であったが、中距離(200~400m程度)における貨物自動車など軍用車両に対する対物射撃では、威力不足が顕著であった。満州の大平原で対車両戦闘を行なうという、より現実的な脅威に即した形で九九式小銃は設計されている。
また中国軍との戦闘において中国家屋の土壁を遮蔽物として交戦した場合、中国軍の7.92mm弾は数発で土壁を撃ち崩したが、日本軍の小銃や軽機関銃の6.5mm弾では困難だったことからも、新型小銃の口径増大が求められた。
これらを踏まえて開発された九九式普通実包は、アルミ合金を鋳造してできた自動車エンジンのシリンダー部を貫通、破壊することが出来たとされる。
"どのように救命ボートで生き残る方法"
草原での草むら越しの戦闘でも、6.5mm弾では軽量ゆえに運動エネルギーが小さく、草との衝突で弾道が曲がり命中しにくいが、7.7mm弾であれば比較的重量があるために草むらを直進して命中させやすいという報告もあった。また、6.5mm弾は遠距離射撃の場合、風に流されやすいという兵士の証言もあり、実際に三八式の狙撃銃型である九七式狙撃銃・三八式改狙撃銃では、ライフリング(腔線、施条)のツイストが急であることも含めドリフト(偏流)しやすい性質の銃になっており、最初から狙撃眼鏡(九七式狙撃眼鏡)の縦軸目盛が斜めに入っているのに対し、九九式狙撃銃用の狙撃眼鏡(九九式狙撃眼鏡)は縦軸目盛が垂直になっている。
三八式歩兵銃と比較して、照門がV字式から円孔式となり、照星も角柱式から三角柱式になった。照準の見出しがやりやすくなったため、兵士の間では概ね好評を得ていたとされる。
ライフリングは三八式歩兵銃と同様のメトフォード型であり、イギリス製ライフルと同様の系統に区分される。
九九式小銃には大きく分けて短銃身型と長銃身型があるが、実際に主力小銃として量産されたのは、銃身が長銃身型より14cmほど短い短銃身型(九九式短小銃)である。長銃身型は歩兵銃として三八式歩兵銃を元に、一方短銃身型は騎銃として三八式騎銃および四四式騎銃を元に、並行して試作されたものである。歩兵銃の方は順調に開発が進んだものの、騎銃の方は大口径化により従来の騎銃と同等の銃身長では反動過大・命中不良などの弊害を来たしたことや、当時の世界の趨勢を鑑み、従来の歩兵銃と騎銃のほぼ中間の銃身長とすることになった。最終的に歩兵銃と騎銃は、銃身長と負革の装着位置の他は同様式のものとされ、それぞれ九九式小銃および九九式短小銃として仮制式制定の上申がなされた。
九九式短小銃の採用前、陸軍戸山学校では各種試験を行い「短い銃身では白兵戦に不利。半自動化を求める者は根性が足りない」との見解が出されたが、大口径化にともない携行銃弾の重量と小銃の重量増加を考慮して、長距離行軍に適する短銃身型が採用される。
大口径化とともに発射機構の半自動化(半自動小銃)も計画され、試作品も完成したが、弾薬消費が補給(国力)の限界を超えることと日中戦争の戦線拡大により見送られた。
短銃身型の採用は、主に、日中戦争の拡大により入営つつあった徴兵検査乙種及び丙種合格者の体格を考慮したものとされる(陸軍身体検査規則参照)。長銃身型の生産が中止されてからは、短銃身型の方が「九九式小銃」と呼ばれるようになった。 また、大戦末期には学徒出陣によって徴兵制度における身長規定に改訂があったため、身長の低い者にも扱いやすいようにより一層短銃身化されたものもある。
当時の日本製小銃はその生産の主に最終工程において、職人の手作業による場面があったために部品の互換性がほとんど無く、三八式歩兵銃の場合は破損や紛失した部品を他の銃の部品と入れ替えると作動不良の原因となる例があったが、九九式小銃は生産性と部品互換性の向上が図られている。銃身の内側はクロームメッキが施されており、発射耐久性の向上に成功している。この技術はのちに自衛隊向けのM1ガーランドの老朽化対策や、64式小銃、62式軽機関銃などの日本製小火器にも採用されている。
初期型の九九式小銃には「高射表尺」という対空用に使える見切り照準器が標準装備されている。これは高射砲・高射機関銃砲(高射砲兵・機関砲兵)のない最前線では、敵航空機は歩兵の最大の脅威であるために、軽機関銃・重機関銃のみならず小銃兵を含む歩兵部隊が全力で集中的に対空射撃しこれに対抗するものであったことによる。図版入りの歩兵操典にはそのために軽機関銃・小銃の対空射撃姿勢(重機関銃は三脚を高射架に組み立て、専用の高射照門を装着する)など対空戦闘の仕方が記されていた。なお、あくまでこれら対空射撃は必ずしも敵機の確実な撃墜を目論んだものではなく、敵機至近に射撃を行い「反撃」することにより操縦者の士気を挫き、接近や対地銃砲撃を回避する意味合いが強い。小銃による航空機の� ��墜例は数件あるものの、墜落原因は戦闘中の混乱で明確でない場合もある。
木製部分は主に長野産のクルミ材を使用していたが、代用としてブナ科の堅木も用いられた。のちに、欧米でオーク材と呼ばれる楢(なら)(日本では樫(かし))が主材料となったが、戦争末期には木材調達がままならず、乾燥処理されていない杉も使われた。
[編集] 使用弾薬
当初、無起縁式の九二式普通実包を使用できるように開発が進められていたが、高威力過ぎて小銃弾としては不向きであった。九七式実包での試験を重ねた後、九九式普通実包を主用銃弾とすることで決定した。これにより補給効率向上を目指した銃弾の互換性は、小銃弾を機関銃弾として使用する一方的なものに留まった。昭和10年代に、成人男性の平均身長が約160cm強程度であった日本人が使用する小銃としては、減装弾であっても威力過大だったともされる。
何ライフルは狩猟の周りのすべてのためには、iすべき
[編集] 九九式普通実包
九九式普通実包は1938年(昭和13年)10月から開発研究がなされた。 九二式実包と比べると、薬莢下端に半起縁部が無い為、起縁部径は12.1mmと0.6mm小さく、底部厚が0.32mm薄くなっている。
九二式重機関銃は保弾板式の給弾機構であるため、作動の確実を期して半起縁式の薬莢を使用していた。その後、九七式車載重機関銃の開発にあたり、箱型弾倉からの送弾装填をより円滑とするべく薬莢が無起縁式に改められ、九七式実包が制式化された。同様に九九式軽機関銃も九七式実包を用いて開発が進められていたが、軽機関銃用としては装薬が多く威力が高すぎたため、装薬および弾丸重量を減らした九九式実包が開発された。これは既存の重機関銃用弾薬を基礎として開発を進めた経緯に基づく。
九九式小銃では、隊内で九九式軽機関銃と弾薬を共有するために九九式実包を主要弾薬として使用することとなっているが、重機関銃用の無起縁式の九二式実包(九七式実包)も使用することができる。前者を近距離戦用の「軽弾」、後者を遠距離戦用の「重弾」と呼称した。九二式重機関銃ではこれら全てを使用出来た。
1940年(昭和15年)以降は半起縁式の九二式実包が航空機関銃用に用途変更されたため、これまでの九七式実包を新たに九二式実包と名称変更することで、歩兵部隊向けの7.7mm弾薬は全て同一形状の無起縁薬莢に整理され統一されたが、強装弾と常装弾の二種類の区別がなお存在した。
弾丸は弾長31mm、弾径7.9mm、弾丸重量11.8g。弾道低落量は水平射撃200mで41cm、300mで99cm、500mで285cm。マンガン黄銅被甲、硬鉛第二種弾身となっている。形状は尖頭弾頭、平底弾尾。薬莢は黄銅製の無起縁薬莢で起縁部径12.1mm。末期には鉄製薬莢も生産されたが、携行中に錆が発生するなど実用性は低かった。
[編集] 小銃擲弾等
九九式小銃には、擲弾(小銃擲弾)発射用アタッチメントとして一〇〇式擲弾器・二式擲弾器などが装着可能であった。
30~45mmの九九式小銃用擲弾が設計・生産され、例として40mm小銃擲弾は1個師団あたり1,000個程度の補給がされた。また、このほか小銃用タ弾(成形炸薬弾)として九九式外装穿甲弾が用意される予定であった。これは310gの炸薬が内包され、75mmの装甲に穿孔を開けることができたが、有効射程は20~30mと短く、試製に終わっている。
[編集] 戦後の九九式短小銃
戦後、日本占領地域に遺棄、または降伏に伴う武装解除により接収された日本軍兵器が各国の独立戦争、内戦などで使用されており、九九式小銃などの小銃も多数が使用された。
自衛隊の前身である警察予備隊では米軍が給与していたM1ガーランドの不足を補う形で、薬室を削り直して7.62mmx63弾(俗に30-06と呼ばれるもの)を使用できるように改造した九九式小銃が使用されていた。名称は九九式口径.30小銃と呼ばれ、配備挺数は約75,000挺、改造のベースとされた九九式短小銃は日本国内の他米国からも供与(返還)が行われたという[1]。これは朝鮮戦争勃発により大韓民国軍への武器給与が優先されたためだが、当の韓国軍でも後方装備として同様の改造を施された九九式小銃が配備されていた。 これらの九九式小銃の多くは、戦時急造として焼入れをしない生鉄を使うなど品質が悪い後期型や末期型と呼ばれる個体がベースと使われた例が多く、そこに度重なる改造[2]を加え高威力の弾薬を使用したことから信頼性に問題があり、暴発や不発、破損などの不具合や故障が多発した。当時、新小銃の開発に取り掛かろうとしていた銅金義一、津野瀬光男をはじめとした警察予備隊や豊和工業の銃器技術者たちが検査したところ、国内に配備されていた九九式小銃には満足に機能するものはほとんど無く、即日射撃禁止の指示が出されたと言われている。
本来の九九式小銃は当時の軍用ボルトアクション式小銃でも高性能な部類に入るものだったが、進駐軍が持ち帰って評価の対象としたのが、末期急造型の粗悪品だったため、戦後アメリカでは粗悪銃と評価されていたが、後に、高品質な初期型が出回るようになると、「キングオブボルトアクションライフル」と評する米国の銃器評論家も現れた。九九式小銃はアメリカ国内でも特にテキサス州に良態で保存されている個数が多い。これはテキサス州兵が第2次大戦中ドイツ軍に包囲され、全滅のピンチを救ったのが日系人部隊だからといわれる。米国の銃器オークションでも、品質の良い九九式小銃は珍品とされ、同種のボルトアクション式小銃の相場を上回る額で取引される。
また、アメリカやカナダではスポーツライフルとしても流通している。アメリカ国内で製造される7.7mm ARISAKA弾が使用されており、貫通力が強く、大型獣の狩猟に使用される。グリズリーなどの大型動物の頭蓋骨を貫通して即死させることができるといわれ、旧日本軍の小銃の中で唯一「ベアハンター」の異名をもつ。
終戦を知らずルバング島で30年間身を潜めていた小野田寛郎予備陸軍少尉が手にしていた小銃としても知られる。この際、弾薬は島内に遺棄されていた戦闘機から引き上げた7.7x58SR機関銃弾(薬莢が九二式実包と同様の半起縁型で交換の必要あり)を改造して使用していた。
[編集] 派生型等
[編集] 九九式小銃(九九式長小銃)
最初に九九式小銃として設計・生産された。生産は少数にとどまる(計約38,000挺)。
[編集] 九九式短小銃
-
- 1939年から1941年にかけて初期生産された。対空表尺、単脚を標準装備しており、品質管理も行き届いていた。内地残留の留守師団に配備された。遊戯銃のモデルにもなっている。
-
- 1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて生産された。対空照尺、単脚を省略。サイパンの戦い、ビルマの戦い、フィリピン防衛戦、硫黄島の戦い、沖縄の戦いなどで使用された。現役時代に三八式歩兵銃で訓練した予備役兵が召集されて九九式を射撃した際、反動の強さに驚いたとされる。
-
- 1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて生産されたもので、生産数が最も多い。末期型と区分されている中でも、終戦直前のものは特に品質が低下し、最終的には、木の台に鉄の筒を載せただけの状態だった。対空照尺、単脚は装備されておらず、銃剣の着剣装置が付いていないものもある。部品精度が落ちているためネジの締まりが悪く、部品脱落が多かったほか、不発や暴発事故も報告されている。照準は固定照準のみで、敵対距離に応じて照尺で仰角を変えることはできなかった。木材加工も工期短縮のために銃床の長さは狩猟用ライフル並に短縮され、未乾燥処理で荒削り、ニス塗装もしていないものやニスの代わりに漆を塗ったものもあった。
-
- 九九式短小銃(海軍では単に九九式小銃と呼称した)を量産しやすくするために簡略化したものに対して海軍が与えた名称。銃身以外は教練銃の製作工場でも制作できるように、機体・用心鉄・照尺座・弾倉底板等を可鍛鋳鉄製にする、さく杖・遊底覆・背負革を廃止する、尾栓円筒と槓桿とを溶接する等の簡略化が行なわれている。
-
- 戦後米軍が押収した九九式短小銃を、朝鮮戦争によって武器不足に悩まされている韓国軍に支給するため、M1ガーランドと同じ強装弾を発射できるように改造したもの。暴発事故による負傷も相次いで報告されており、九九式小銃の名を貶めた悪銃である。約14万挺が改造され、警察予備隊にも配備された。
[編集] 九九式狙撃銃
-
- 狙撃銃として九九式小銃の生産ラインの中から精度の高い銃を選び出し、機関部左側面上方に九九式狙撃眼鏡(倍率4倍)または九七式狙撃眼鏡(倍率2.5倍)を装着したもの。1942年5月に仮制式が上申された。
詳細は「九九式狙撃銃」を参照
[編集] 二式小銃
-
- 九九式短小銃を薬室部分から二分割可能にし、銃袋に入れて持ち運べるようにしたもの。分割部分は金属で補強してある。挺進落下傘(ていしんらっかさん)または鉄砲・落下傘(てっぽう・らっかさん)に由来して、テラ銃・二式テラ銃という通称・略称がある。パレンバン空挺作戦で戦果を挙げた落下傘部隊たる挺進連隊に配備するために考案された。また銃身部と機関部を分割することから精度も九九式短小銃と比べて低かった。
[編集] 九九式小銃(挺進用)
-
- 製造に手間のかかる二式小銃の代替として1943年10月に制定された挺進用小銃。既に大量生産されている九九式小銃を転用して二式小銃と同様の分解機構をもつものに改造することにより、増産を容易に行なえるようにした。
[編集] 主力装備として採用された主な国、組織
[編集] 九九式小銃が登場するメディア作品
[編集] 映画・テレビドラマ
- 避難民を誘導する自衛隊員が肩に担いでいる。
- 他に無反動砲・機関銃などの実射シーンにも自衛隊が協力している。
- 槊杖が欠落しているが、空砲による戦闘シーンがある。
- 連続殺人鬼サソリが二式テラ銃をスポーティタイプに改造して使用。
- 日本軍狙撃兵・山村が九九式狙撃銃を所持。
三八式歩兵銃と並んで日本軍の主力小銃であった為、この他にも戦争を題材としたドラマや映画に登場する。
[編集] 漫画・アニメ
[編集] 小説
[編集] ゲーム
- ^ 伊藤眞吉 「鉄砲の安全(その4)」『銃砲年鑑』10-11年版、117頁、2010年
- ^ 健常な個体であっても元々強固な部分焼入れが施された薬室に焼きなましを行ってから削り直す為、加工後の再焼入れが十分でない場合、見た目の肉厚以上に強度が低下することとなる。
0 件のコメント:
コメントを投稿