プロ野球選手のイチローですが、メジャータイ記録の8年連続200本安打の記録までもう少しというところまできてますね。107年ぶりの記録らしいです。
すげー!!
達成したら、アメリカでは盛大にセレモニーとかするのかな〜
それとも新記録の9年連続達成するまではひっそりとしているのかな
記録はもちろん、アメリカって演出が上手なので、どんな感じになるかなってことでセレモニーにもちょっと興味あります。
イチローの記録はここを見てくださいね
で、イチローをウィキペディアで調べてみたりして。
イチロー
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イチロー(鈴木 一朗)
Ichiro Suzuki
シアトル・マリナーズ No.51
基本情報
国籍 日本
出身地 愛知県西春日井郡豊山町
生年月日 1973年10月22日(34歳)
身長
体重 5' 11" =約180.3cm
170 lb =約77.1kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 外野手(中堅手)
プロ入り 1991年 4位
初出場 NPB / 1992年7月11日
MLB / 2001年4月2日
年俸 $17,102,149[1](2008年)
経歴
* 愛知工業大学名電高等学校
* オリックス・ブルーウェーブ(1992 - 2000)
* シアトル・マリナーズ(2001 - )
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手
イチロー(本名:鈴木 一朗(すずき いちろう)、1973年10月22日 - )は、シアトル・マリナーズに所属するプロ野球選手。ポジションは外野手(右翼手、2006年後半より中堅手)。血液型はB型。
驚異的にヒットを量産することから「安打製造機」と称される。また米国においては、その巧みなバットさばきの様子から、「魔法使い」と呼ばれる。
目次
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* 1 経歴
o 1.1 日本プロ野球
o 1.2 メジャーリーグ
o 1.3 世界大会
* 2 選手としての特徴
o 2.1 打撃
o 2.2 守備
o 2.3 走塁
o 2.4 評価
* 3 人物・エピソード
o 3.1 オリックス時代
o 3.2 マリナーズ時代
o 3.3 記録など
o 3.4 ドラマ出演
* 4 略歴
* 7 タイトル・表彰・記録
o 7.1 タイトル・表彰
o 7.2 特筆記録
* 8 CM
* 9 出演番組
* 10 書籍
* 11 関連項目
* 12 脚注
* 13 外部リンク
[編集] 経歴
[編集] 日本プロ野球
1991年、ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)に入団した。
入団後は2軍で首位打者を獲得しながらも、土井監督や小川亨コーチなどの一軍首脳陣から振り子打法を否定され、足の速さを生かすようにと内野安打狙いのバッティングや山内一弘コーチ式の内角打ちを指示されるが、意見や指導が合わず、当時豪腕の名をほしいままにしていた野茂英雄からプロ初本塁打(1993年6月12日・長岡市悠久山野球場)を放ったもののその日に2軍降格を言い渡されるなど、1軍に定着することはなかった。
2軍生活を余儀なくされていたイチローは、2年目の秋に河村健一郎2軍打撃コーチと二人三脚で日本時代のイチローの代名詞ともなる振り子打法を作り上げた。
1994年、監督に招� �された仰木彬はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと、登録名を当初の「鈴木(SUZUKI)」から「イチロー(ICHIRO)」に変更させ(同時に佐藤和弘(SATOH)も「パンチ(PUNCH)」に改名させた。これは登録名をニックネーム等に変更することが珍しかった当時、マスコミにイチローが珍しがられるのを防ぐためと、当時知名度ではイチローよりも上だった「パンチ」に注目が行くようにした為。変更時に行われた記者会見では「『鈴木』や『佐藤』と言う苗字は多いので、ファンの人たちに覚えてもらいやすいように」と説明されていた)、1軍の2番打者に抜擢する。イチローは1軍打撃コーチの新井宏昌にも理解されレギュラーとして活躍。4月末ごろには1番打者に定着し、日本新記録の69試合連続出塁、日本球界初となるシーズン200本安� ��の偉業を達成。最終的に210安打(日本記録)まで延ばし、パ・リーグ新記録となる打率.385(後の2000年に自らパ・リーグ記録を更新)で首位打者を獲得。またこの年から打撃の正式タイトルとなった最多安打の初代獲得者となった。
1995年、前半戦を三冠王で折り返す。最終的に本塁打数は小久保裕紀に抜かれたものの、主に1番打者を打ちながら、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得し、「五冠王」。またリーグ2位の長打率や当時のパ・リーグ記録となるシーズン18死球に加え、当時の日本タイ記録となるシーズン初回表先頭打者本塁打5本を残したほか、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。ちなみに本塁打王の小久保は28本塁打、イチローはリーグ3位タイの25本塁打で、日本球界� ��メジャーリーグともに前例のない打撃タイトル独占にあと一歩であった。
1996年は開幕から前半戦まで1番打者として出場し、オールスターゲーム第1戦では初回先頭打者初球本塁打(オールスター史上3人目、パ・リーグ選手では史上初)を放った。第2戦では投手として登板し、高津臣吾を遊ゴロに打ち取っている。後半戦からは打順を変更され、3番に固定。前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いたが、3番になってからは調子を上げ、固め打ちが目立つようになった。最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、猛打賞を26回(日本記録)、1試合4安打を8回記録(達成当時、日本新記録。現在はパ・リーグ記録)した。また9月23日の日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)では、延長10回裏にオリックスのリー� �連覇を決めるサヨナラ2塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「地元・神戸での胴上げ」を実現させた。さらに日本シリーズ第1戦では、延長10回に読売ジャイアンツ・河野博文投手からライトスタンドに決勝本塁打を放つ。チームは阪急時代の1977年以来19年ぶりの日本一に輝き、イチローは優秀選手賞を受賞した。
1997年から1999年までは主に3番打者として出場。1997年6月に209打席連続無三振の日本記録を樹立、その後の対日本ハムファイターズ戦で下柳剛(現:阪神タイガース)から三振するまで216打席連続無三振をマークした。三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振はわずか3つである。
1998年、張本勲の4年連続を抜いて、日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成。また同時に5年� ��続・通算5回目となるシーズン最多安打を記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位)。
1999年4月20日、対日本ハムファイターズ戦で金村曉から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。7月6日の対西武ライオンズ戦では松坂大輔から通算100号本塁打を打った。同年はオールスターゲームの時点で19本塁打を記録するなど、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハムファイターズ戦において下柳から右手に死球を受け、負傷。残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年4月から続けていた連続試合出場が、パ・リーグ歴代4位・プロ野球歴代14位の763でス� ��ップした。
2000年、プロ野球歴代2位のシーズン打率.387を記録。この年は開幕から4番に指名され、同打順で毎試合スタメン出場していたが、8月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回に三塁線へファウルを打った際に右わき腹を痛め、途中交代。その後出場を果たしたのは、神戸でのオリックス本拠地最終戦である10月13日の1試合だけで、9回に守備固めとしての出場であり、打席には立たなかった。イチローがメジャーリーグに挑戦するため日本球界を去ると記者会見をしたのが前日の10月12日だったため、この試合終了後、イチローは帽子を取ってファンへお別れの挨拶をしている。
1994年から2000年まで7年連続で首位打者、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。7度の首位打者は張本勲と並ぶ日本記録、7年連続首位打者は史� ��初。さらに1994年から1996年までは連続MVPであり、3年連続MVPは他に山田久志しか達成していない快挙である。
[編集] メジャーリーグ
2001年
ポスティング制度を利用してメジャーリーグの球団、シアトル・マリナーズに移籍する。メジャーリーグ移籍に関して本人は2000年に移籍と決めていたが、恩師である仰木彬監督に「もう1年だけ一緒にやろう」と引き留められ、断ることができずにチームに残ったという裏話がある[要出典]。
当初は、日本人野手がメジャーで通用するのか疑問視する声が日米問わず多かった。「51」という背番号をつけることになったときにも、当時のマリナーズには「背番号51」はランディ・ジョンソン(1998年まで在籍)の番号というイメージがファンの間で認識されていたために、「ランディの功績を台無しにする」「ランディを侮辱している」と言う理由であまり好意的には見られてはいなかった。[要出典]しかしその後の活躍で、このことを言� ��ファンは誰もいなくなった。
開幕戦からマルチヒットを放ち、その後も順調にヒットを積み重ね、MLBオールスターゲームでのファン投票では337万票を獲得し、日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となるなど、アメリカにおいても評価されるようになる。この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打(当時歴代9位)を放ち、メジャーリーグのルーキー最多安打記録を更新するとともに、アメリカンリーグの新人王・MVP・首位打者・盗塁王に輝く。首位打者と盗塁王を同時に獲得したのは1949年のジャッキー・ロビンソン以来、新人でアメリカンリーグの打撃部門を制したのは、1964年ミネソタ・ツインズのトニー・オリバ以来2人目、安打試合数の135試合はロジャース・ホーンスビー、チャッ� �・クライン、ウェイド・ボッグス、デレク・ジーターら4人と並ぶメジャータイ記録、また打率.350と打数692はアメリカンリーグ新人記録。なお、新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローの他には1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバ(首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア(本塁打王)以来6人目。当時、イチローの安打数が200を超えたあたりから、メディアでは「ルーキー最多安打記録」が話題になったため、リーグ機構が1947年に制定したルーキー資格を元に、過去の打撃記録を調べなおした。結果、当初1927年のロイド・ウェイナーの「223安打」と思われていたルーキー安打数記録が、1911年にジ� �ー・ジャクソンが記録した「233安打」に訂正される事態も起きている。
そのほかにもリーグ2位の得点(127)を残し、得点圏打率(.445)、2死得点圏打率(.460)、2死得点圏出塁率(.558)、走者ありでの打率(.420)では両リーグを通じて1位を記録した。なお、新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を同時に手にしたのはメジャーリーグ史上、イチローのみである。このように記録的な活躍でチームのプレーオフ進出に貢献、日本の一流打者(野手)がメジャーリーグでも通用することを証明した。
2002年
警戒され、リーグ最多の27敬遠を記録する。四球も前年の30から68に倍増した。リーグ4位の打率を残し、208安打を打ったが、リーグ最多安打にはあと1本及ばなかった。
2003年
5月にはメジャー通算500本安打を達成。7月には、新人から3年連続でオールスターファン投票両リーグ最多得票を獲得した。新人からという注釈を外してもケン・グリフィーJr以来2人目の快挙。
2004年
84年間破られることのなかったジョージ・シスラーの257安打を5本上回る262安打を記録と同時に打率.372を記録し、メジャーでは3年ぶり2度目の首位打者にも輝いた。ジョージ・シスラーの記録は年間154試合の時の記録で、イチローは160試合目での到達だったため[1]、米国内では少なからず疑問視する見方もあったものの[2]、この記録は内外で高い評価を受け、アメリカでは多くの新聞でその偉業を称える記事が掲載され、USA TODAY紙にもバリー・ボンズが700号ホームランを打った時以来の全面広告でメジャーリーグが祝福の意を表した。また史上8人目となるコミッショナー特別表彰を受け、アメリカ野球殿堂には特別ブースが用意された。日本からは正力松太郎賞特別賞が授与された。その際"打撃の神様"の愛称で知られる川上哲治に、「精神的にも技術的にも、野球の神様といえば彼じゃないかと思う」と賛辞を送られている。また3度目の国民栄誉賞の授与も打診(3度とも本人が辞退)され、アジアの国々や野球に関心の薄いイギリスでも異例の取り扱いで新聞等のメディアがその記録達成を伝えた(日本のニュースより)。
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